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    203.「いじめ問題と教育改革」(11月20日)

連日とりあげられている「いじめ問題」の記事を読むたび、暗澹たる思いにさせられる。

大きな問題になってから20年近くになるというのに、一向に改善されないどころか、深刻度を増しているようにみえる。子供の自殺を防ぐ対策として、いじめられる子供は登校しなくてもいいようにとか、外部の相談窓口を設けるなどが考えられている。一時的な非常手段としてはやむをえないが、いじめる側が学校に通い、被害者が登校できないとは本末転倒で理解に苦しむ。これは学校側の責任回避ではなかろうか。いじめ問題と教育改革

かつて米国駐在から帰国時、日米の公立学校での運営面の差異に驚きを覚えたことがある。とりわけ規律違反の生徒に対する対応においては、米国で垣間見た方法が数段優れていたと記憶している。 弱い者いじめをするような子供をみつけると担当の先生は、これを断固として許さないという厳しい姿勢で対応していた。弱い子供に暴力行為をする場合は無論のこと、暴力的な言葉を吐くのも同じ扱いを受ける。その言葉も英語でなくても、他国の言葉でも同じである。日本人の子供が、多分、相手にはわからないからと思って日本語で侮蔑的な言葉を吐くような場合でもアウトである。実際、言葉の正確な意味はわからなくても、侮辱されたことは場の雰囲気からわかるのである。 このような悪態が教師の耳に入ると、まもなく、加害者側の子供の親が学校に呼び出され説教される。大変、厳しい指導を受けるそうだが、運悪く再発するような場合、次は何日間か自宅謹慎処分になるとのこと。更に同様のことが繰り返されると、ついには地元の教育委員会から退学/転校命令というレッドカードを受け取ることになるのだそうだ。

 米国は言わずと知れた多民族国家であるから、体格も知的水準も本当に様々である。そうした子供たちの寄り合い所帯である公立学校では、最低限の規律を守ることについてはことのほか厳格である。 加えて、米国初等教育で極めて重視しているのはフェアネス、つまり、公正あるいは正義である。弱い者をいじめるのはフェアではないと子供たちに徹底的にたたきこむ。教師がそのような強い態度に出られるのは、当然ながらPTAや地域の人々の賛同がバックにある。「義務教育の間だから」、「子供だから」を言い訳にして、いじめを行う子供を放っておくことは絶対にないのである。子供たちは、日々、このような教師の態度に接することを通じて、多様な人々が暮らす共同体では何が大切かを学び、ひいては国を愛することを覚える。

ある朝、子供の通っていた小学校の事務室に立ち寄ったおりのことである。ちょうど校内放送で国歌が流れ始めたのだが、その瞬間、まるで「時間よ止まれ」の合図があったかのように周囲で騒いでいた子供たちが全員ぴたりとその場に立ち止まり、胸に手を当てて国家を斉唱したのである。

他方、どこかの国では、卒業式で教師が国歌や国旗にどのように対応するか今だに議論されている。そのような形式を教える以前に、教師が子供たちに体を張って教えなければ ならないことがある。そのような教師を支援するシステムを作ることが教育改革では何より求められているのではないか。