「都市の空気は自由にする」とはドイツのことわざである。 中世のヨーロッパでは、封建的な領主の支配下にあった農奴であっても、都市にはいって、期間などの一定の条件を満たしさえすれば誰でも市民権が与えられ,自由と身分の保証を得ることができたという。 このように中世の都市には、様々な人々が共に過ごすことにより、互いが自由で支配関係のない主体的な市民になり得たことに存在意義があったようである。 このような市民の多様性と主体性を育むむことが中世都市が果たしていた重要な機能であり、人々をひきつける魅力だったといえる。
今日においても、「都市の空気は自由にする」という語感になるほどと納得する面は多い。ただ、多様性と主体性という点については、我々はそれを認識しているだろうか。 ことに主体性については疑問符がつく。 現在では、「都市の空気」が自由に感じられるのは、むしろ雑踏の中に自分を隠し解放感をえることができるという「匿名性」ではないだろうか。
ある時、地方の大学の先生方との会合で、地元では、プライベートのことでもすぐ話題になるのが悩みの種であるという話を聞いた。 学生たちの間でも同じであり、大学のある町内ではすぐにばれてしまうのでデートには隣町に出かけるようにすすめている(?)とか。 確かに都市に育った人間には、小さな町は四六時中監視されているような気がするのだろう。 このようにまちづくりというものは簡単ではない。
ネットにおいても匿名性を活用した様々なコミュニティが盛んになっている。 ネットには自分を隠して気軽に徘徊できるだけでなく、別の人格を装って楽しむゲーム感覚が味わえる。 しかし一方で無責任な誹謗中傷の類も少なくない。 ソフトのセキュリティホールをついて発信者を詐称して爆弾メールを送りつけるといった輩もネットの世界には横行している。 まさにネットのオレオレ詐欺である。
「ネットの空気は自由にする」のは確かではあるが、ネットの方も匿名性だけでなく、主体性や多様性が尊重されなくてはならない。 それこそ、ネットを使う一人ひとりの責任と自覚によって発展してきたインターネットの理念なのだと思う。
(4月23日)