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    55. 「権利教育」

義務教育の「義務」とは今更言うまでもなく、全ての子供に一定レベルの教育を受けさせる義務を親や社会は負っているというものである。しかし、子供たちの中には、教育を受けなければならないという自分たちの義務のように誤解ないしは錯覚している向きもあるのではなかろうか。 最近問題になっている不登校も、学習が義務感となり、学校に行くのを強制されることで、かえって悪い結果を招いているのではとも思うのである。 学校に行きたくない子供たちを追っかけまわして強制連行するというのも何か変である。 昔の兵役義務に近い「義務」の意識が不登校児にあるかもしれない。

わが国の学校の歴史をさかのぼると江戸時代の寺子屋に辿りつく。当時、ききわけのない子供への説教言葉に、「そんなことをすると寺子屋に行かせないぞ」というのがあったとのこと。それだけ、江戸時代の子供たちは寺子屋が好きだったのである。なんという違いであることか。校舎に呼び入れられる子供たちイメージ

なにより教育は日本国憲法(第26条)によって保証されている子供たちの権利なのである。それが理解されないのは子供たちの不幸であり、親の不幸であり、そして社会の不幸である。今や、「義務教育」から「権利教育」という言葉に重点を移すべき時のような気がする。 できるならば、その権利の行使の方法は一人ひとりの個性や、置かれている環境に応じて、色々選択できるのが望ましい。 さらに理想を言えば、その権利は人の一生のどの段階で行使するのも自由であったらいい。

自分自身が必要と感じて勉強する時が一番身につくからである。究極の教育バウチャー制度(注)ともいえる。

今やeラーニングの進歩で、その気になればいつでも学べる時代になりつつある。問題は「その気」になった時に、気軽に始められる環境が身近にあることが大事だ。 それには現在の公立学校の施設の利活用などにより、社会人に充分開かれた学校が近くにあるといい。

中学の途中で学校が嫌になったら、友達よりひとまず先に社会に出るのもいいではないか。そして、自ら必要と感じた時にここに戻ってきて、老いも若きも色々なバックグラウンドの人々とともに、必要な学習をすることができるだろう。(5月19日)

注)教育バウチャー制度: 米国において、主に、都市部における公立学校のレベル低下に苛立ち、学校の選択権を個人に与えることによって学校間の自由競争を促す目的で導入された制度。