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    124. 「義務教育を考える」

現在、わが国の義務教育は小中学校の合計9年間である。 この義務教育は、わが国が世界に誇る教育システムの根幹と信じられてきた。 しかし、近年、だいぶ様子が変わってきた。 というより、大きな岐路にさしかかっている。 例えば、年々増加する不登校児の問題。 今や不登校児は全国で10万人を超える。 753教育という言葉もある。 小学校では3割、中学では5割、高校となると7割の児童生徒が授業についていけないという。 一方で、学校以外で学習できる場が大きく広がった。 明治時代には先生は何でも知っている神様だったが、残念ながら今はそうではない。 パソコンや英語など、内容によっては生徒の方が先生以上というのは珍しくない。

情報通信の発達により多様な教育の手段が可能となる一方、少子高齢化による生涯教育の比重が高まっている今日、現在の義務教育システムを今後とも従来と同様な形で維持するのが適当かどうかはなはだ疑問である。 あえて大胆に言えば、義務教育は小学校の6年間のみでいいのではないかと思われるのである。校舎に駆け込む生徒イメージ

その年齢の教育を各人の個性にあわせて幅広く選択可能とするともに、税金支出や教育システムの構成を生涯教育の充実にむけて大きくシフトさせるのである。 教育の効果は自ら必要と感じた時に、自発的に学習するときに最も発揮される。 実社会の経験をしてみて始めて学習をやり直したいという場面は多い。 高齢化に伴いその再教育ニーズは高い。 無論、子供たちの教育の充実は必要であるから、子供たちの資質能力に応じた教育が選択できるような形での支援を増やすのである。 本来、教育は、個々人に応じて個別であるべきなのである。

現代中学生の発育は早いので、この年齢の能力資質は時に驚くべきものがある。科学、芸術、スポーツの面で思い当たる子供たちが何人もいるのではないか。

義務教育という名のもとに、興味をもてない授業に子供を机に縛りつけるというのは、教育という名を借りた残酷物語ともいえなくもない。 公立学校に通わなければ文字を読むことすらできなかった明治時代とは違い、情報通信が発達し個々の国民の教育レベルが向上した現在では立派な先生がどこにでもいるのではないか。 親や子供に選択肢を与えて適性のある好きな分野に早くから進めさせてやるべきなのではないかと思う。 スポーツや芸術が好きなら、その道でとことんやるのがいい。 そのなかで師弟関係、チームワーク、忍耐心など、今日必要な全人教育ができるのではないだろうか。 学校に遊びにきて、真面目な生徒の邪魔をするような生徒は、早く社会に出してやった方が彼らのためにもなる。 6時間もじっと机にすわっているより、商売をしたり親方のもとで技術を身につけたりするのがずっと性にあっている子供たちは少なくないであろう。 ビジネスの才能がある子供たちなら、12−3歳の段階からその道に進むことができれば、松下幸之助のような創業者が生まれる確率が高まると思われる。

中学退学者を少なくする取り組みに力をいれるよりも、中学に行かずに自らの道を選択する子供たちを積極的に支援すべきではなかろうか。(12月31日)